御坊田善雄が、水を得た魚のように英断をくだしたのは工場の機械に関してでした。昭和39年の新工場では、予算の都合もあって、思ったような機械が入れられずにいました。工事を2回に分けたのも、そのため。しかし、その後の江別製粉の命運を分けたのは、工事を二期に延ばしたことだったのです。先代の安孫子安雄が志半ばの第一期でこの世を去った2年後、工場の近代化を図り二期工事を行います。機械にかけて善雄はプロフェッショナルです。安雄との二人三脚では、そうやって支えてきたのです。一期では入れられなかったドイツ製の優れた機械を導入。工場の能力をあげることで、さらなる稼働率と品質の向上を狙いました。
善雄のこの考えは一貫していました。よい機械を入れ刷新していくことは、必ず売り上げにつながっていく。安雄社長に長年連れ添った片腕として、ずっと通してきた信念でした。そこには、日々工場のラインに気を配り、技術的なことに理解を示す善雄社長の献身的な思いがあったのです。工場を強くすることで、どこにも負けない商品が生まれ、営業が胸を張って仕事ができる。それが善雄の社長としての哲学だったのかもしれません。昭和44年、会社設立20周年と第二期工事の祝賀会を無事に迎え、善雄は初めて社長としての座に就いたような気がしました。
この頃、世界経済はいよいよ大きな流れを見せ始めます。昭和47年、札幌冬季オリンピックが開催され、北海道は五輪景気に沸きました。しかし、翌年の48年には、第一次オイルショックが世界を駆けめぐり、企業から家庭までをも震撼させたのです。それに加え漁場でカタクチイワシが穫れなくなったことで、家畜のエサの代替えとして大量の大豆が用いられるようになりました。このことが引き金となり、世界的な穀物不足となったのです。日本最大手であった日清製粉でさえも小麦粉不足に陥り、小麦の値段も粉の価格も跳ね上がりました。江別製粉にとって、幾度めかの試練のときを迎えたのです。
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