第十一話 早すぎる別れ

製粉業界の全国組織では副会長、自社においては新工場の建設。昭和30年代の安孫子安雄は、人々の倍の速度で毎日を過ごしているかのようでした。小麦粉のことばかりではありません。頼まれたらイヤと言えぬ性格です。町会議員を皮切りに、江別の公職を次々と担うことになります。市の審議会をはじめ、自治会長、商工会議所の副会頭、菩提寺の総代まで務め、名刺の裏には数え切れない役職が並びました。

 

しかし安雄には、かつてより煩っていた持病がありました。結核です。一度、肺を痛めた者に、これだけの重責は体の負担となりました。もともと細身だった体は、ますます細くなっていきます。序々に無理がきかなくなり、横になることも増えました。体力より気力。もともと気丈夫な安雄です。やはり工場を建てるころにはジッとしておられず、自宅の応接室にベッドを置き、枕元に電話を据えて、病床のなかから指示を出しては、檄を飛ばしておりました。

 

けれど、そんな無理も長くは続きませんでした。昭和40年春。父の安孫子吉蔵が亡くなり、その年の暮れには母 すまも亡くします。この年、相次いで両親を見送った安雄は、とうとう入院してしまいます。新工場の一期工事が完了し、いよいよ二期目を迎える大事なとき。安雄の心も穏やかではなかったことでしょう。その思いも虚しく、昭和41年3月23日。江別製粉創立者、初代社長の安孫子安雄は息をひきとりました。享年57。早すぎるお別れに、周囲の落胆は図り知れませんでした。社としても、また地域としても、まだまだ安雄の力に期待し、活躍を望んでいたのです。この訃報にたくさんの人々が葬儀に集まり、安雄の死を悼みました。

還暦を迎えることなく、人生を一直線に駆け抜けた安孫子安雄。無常と言える短い運命でしたが、その強くしなやかな志は、しっかりと後人へ受け継がれることとなります。