第十話 新工場に夢を託し

昭和39年1月。安孫子安雄は江別製粉を近代化すべく、工場を新設しました。社屋は木造から鉄筋コンクリート造のRCへ。設備は道内初となる最新のニューマティック方式。国内最高品質の機械を導入しました。また、工事そのものは大手ゼネコンの鹿島建設に依頼したのですから、安雄の気持ちの入れようが伺えます。この新工場の工事は二期に亘って行われました。土地の確保も含め、一度に大きな投資となることを避けたのもありますが、二回に分けることで余裕ができ、より優れた機械を入れられるという判断もありました。会社にとって再び大きな投資となる新工場。その後、安雄の読みはピタリと的を射ることになります。

 

全国の協同組合で副会長を務めてきた安雄です。大きな製粉会社の強さと、様変わりしていく東京の姿を何度も眺めてきました。「このままでは太刀打ちできない。質の向上と生産量をあげなくては…」。挑戦を続けなければ、会社の存続は望めません。これまでの古い設備では、いい粉がとれず歩留まりが悪い。注目のニューマティック方式の機械であれば、空気に触れながら製粉するので発熱が拡散し、蒸れることなく粉の流れもスムーズ。いくつものパイプを勢いよく流れていく画期的なシステムに心も躍ります。これによって一日の加工能力が50トンだったものが、倍以上の120トンにものぼりました。生産量の少ない我が社にとって、これは大きな躍進でした。

生産量を伸ばしたからには仕入れの量も増やさねばなりません。国内で扱う小麦の総量が決まっているなかで、買い取れる割り当てを増やしてもらうため、国と直接交渉することも度々でした。また同時に出荷量も増えるのですから、輸送手段の確保も必要です。当時の主な陸送と言えば列車。駅の貨車の手配によっては出荷数が左右されてしまいます。また、販路の確保も重要です。幸い、道内の各地で売り先に恵まれ、中規模のスーパーなどに納品する麺パンのメーカーとの取り引きによって、自分たちの身の丈にあった商売ができるようになったのです。

 

社屋や工場の新設、玄麦の仕入れから生産量や機械の稼働率、出荷の具合に販売先の心配まで。たくさんの社員に支えられながらも、安雄の気が休まるときはありません。そういう性分なのですから、無理をします。もともと結核を患ったことのある安雄の体は、激務のなかで悲鳴を上げ続けていたのです。