戦後の混乱期から約10年。インフレの影響を受けた小麦の価格は、130倍以上の値に跳ね上がり、委託加工から現金の買い取り加工に移行した国の政策によって、製粉会社の経営は厳しさを増し続けました。食糧事情が平常になり安定したことによって、今までのように国から原料を与えられ、操業さえしていれば加工賃を保障してもらえる時代は終わりを告げたのです。昭和33年に協同組合全国製粉協議会が発足した経緯も、そこにありました。
中小の製粉工場が自らを守るため、全国の仲間とともに組合をつくることで、国に対して陳情や意見の申し入れを行うようにしたのです。その一つが輸送コストに対する補助と、原料となる小麦の取扱量についてでした。特に玄麦の買い受けは大手4社に6割近く持って行かれる状況だったのです。日清、日粉、昭和、日東。圧倒的な設備や生産能力、関連工場と企業を持つ4社は、中小の工場にとって驚異。大規模な大手企業ばかりに偏らないよう、仕入れの平等化を申し入れました。
時は神武景気と呼ばれた高度経済成長期。朝鮮戦争による特需も手伝って、日本は経済の復興に全力を挙げていました。旧財閥の大企業だけではなく、裸一貫から成功を目指せる時代。製粉業界同様に、さまざまな職業で競争が激化する一方、誰もが夢を追いかけ、独自の発想や発明で名をあげられる時代でもあったのです。テレビ・洗濯機・冷蔵庫。家電の「三種の神器」が人々の生活を便利にし、世界初のインスタントラーメンが食卓にのぼりました。早くて安価で、そしてたくさん。世間の求めに応じた商業スタイルは企業の形も大きく変化させました。小さな商店はスーパーマーケットへ、町のパン屋は製パン工場で均一化した商品に追いやられてしまいます。
日本人の生活が核家族化し、それに合わせ団地の拡大と大型店舗が登場しました。需要が急増したことによって商品を大量に扱うメーカーが増え、流通も近代化し大規模化したのです。これは製粉会社にとっても一大事。新しい流れについて行けなくては存続が危ぶまれます。やはり玄麦の買い入れを安定させ、加工生産量を伸ばすこと。そして、販路を確保することが急がれました。ただ、これらのことを満たすために設備の向上は避けられません。巨費を投じて工場を近代化させるか、それとも諦めるのか…。どの方向にシフトするかによって未来が変わります。
昭和39年、社長の安孫子安雄は最新の機械を導入した新工場を建設。時代の波に乗り遅れないよう生産性をあげ、江別製粉を強くする道を選んだのです。まさにそれは東京オリンピックが開幕し、日本が国際社会に対して経済復興のファンファーレを奏でた年のことでした。
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