第八話 製粉工場の盛衰

江別製粉が工場を移転し、大規模な再建を目指していたころ、世の中は再び節目を迎えていました。それまで全面的に統制されていた小麦加工の政府委託が、原料買い取りの加工制度へと移行したのです。昭和27年、春のことでした。この政府による間接的な統制が販売の自由化を生み、市場競争時代に突入。ピーク時には戦後最高3,095件を誇っていた工場数が一気に激減し、同じ年には1,917件と6割近くまで減ったのです。たくさんあった大小さまざまな製粉会社が生き残りを懸けた過酷な競争を強いられました。それは江別製粉にとっても同じことです。

 

小麦は輸入も国内も国によって統制され、仕入れる量が決められてしまいます。第七話でも述べましたが、その小麦を買うときは現金の前払い。かたや小麦を加工し販売する相手の問屋やメーカーとは、「売り掛け」というツケのような状態で、手元にお金が入ってくるまでに長く時間がかかります。大抵の工場はその間の経営が立ちゆかなくなり、廃業に追い込まれてしまいました。けれど工場を新たにしたばかりの安孫子安雄にとって、ここで負けるわけにはいきません。押し麦と小麦の加工で何とか持ちこたえる日々でしたが、彼には思わぬ秘策がありました。それは工場の移転を機に、倉庫を増やしたことでした。それにより、小樽の港から運ばれた荷物を預かる倉庫業を行ったのです。

 

当時、札幌やその近郊で工場地を持つ会社などが、流通の一環として荷物の預かりを行う倉庫業を兼業し、本来の事業とは異なる不動産収益を得ていました。安雄は、そこに着目したのです。過去の記録をたどると、昭和29年の台風15号、通称「洞爺丸台風」で北海道が大打撃を受けた折り、建設中だった第7・第8倉庫が強風で倒れたという記録が社の歴史に記されています。それだけの数の倉庫を有し副収入を見込むことで、この難局を超えることができたのでしょう。

↑昭和30年前後の安孫子安雄

道内の他の製粉工場は、その存続をめぐり組合のなかで話し合いが行われていました。安雄はその交渉役を担うことになります。合併や吸収、そして倒産。当人や関係者の気持ちを考えると胸が痛みます。満足とまではいかなくとも、どうか少しでも納得のいく形で収めたい。昭和33年、協同組合全国製粉協議会が発足したこの年、安雄は副会長に就任します。全国で745工場、道内は7工場。痛みの伴う結果のなかで、安雄の役割は製粉業界の未来を考える立場へと変化していったのです。