昭和26年7月20日。味噌醸造工場16棟6600平方メートルを焼失し、同時に製粉工場も焼け落ちた大火災。創業3年目にして思いもかけない災難に見舞われた安孫子安雄でしたが、ここで大きな賭にでます。意を決し岩田醸造の土地から移転し、新しい工場を建設することにしたのです。とても大きな投資をしての再開でしたが、7月の火事から12月の新工場完成まで半年は仕事ができません。この頃、道内の製粉業界は木田製粉、横山製粉のほかに2〜3社ほどが名を連ねておりました。江別製粉にとって、この半年間のロスは大きく、各社に遅れをとったまま、後々まで営業先の確保に影響を及ぼすことになるのです。
ただ、製麺・製パンの需要は高く、作ったら売れるという時代。小麦の買い付けは現金での「前金払い」、けれど問屋さんとの取り引きは「かけ売り」という厳しい条件のなかでも、何とか製粉の仕事を軌道に乗せました。またこの当時、小麦の製粉はもちろんですが、まだまだ全国的に米の生産高が低く、押し麦の需要が多かったため、新しく押し麦の工場を大きくしたことが功を奏しました。押し麦の生産量が上がったことで、会社の危機を支えることになったのです。このように江別製粉の創世記は、製粉と押し麦加工の二本柱で会社を存続させていくことになります。
もう一つ、この新工場建設で安雄が行ったことがありました。最新の機械の導入です。高額な設備投資は会社をひっ迫させますが、同時に商品の品質を向上させ生産量も増やすことができます。工場の建設そのものも大事ですが、安雄にとって一番の投資は機械に向けられました。それは我が国最初のロール式製粉プラントを技術開発し、海外へも輸出を重ねてきた、国内トップの明治機械の製粉機を入れること。この明治機械は、巨大精糖会社の傘下で独自の技術を磨いてきた、一流の会社です。粉砕器をはじめ、製粉や飼料用機械の製造では、今も業界の首位に立つトップブランド。火事に焼け出され起死回生の安雄にとって、真新しい機械の並ぶ工場に社の命運がかかっています。敗戦の混乱を乗り越え、今度は負けまいと立ち上げた会社が火事で焼けたのです。ギリギリの選択のなか、どれほどの夢を託したことでしょう。元気よく動力の音を響かせて働く機械に、どこか誇らしく、やる気がみなぎる思いがしたのでした。
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