皆さん、こんにちは。
粉屋の安孫子です。
さて前回は、ハルユタカが登場するエピソードをお伝えしました。そのハルユタカが、こちらの予想を超え、まるで一人歩きをするかのように自分の道を進み始めます。今でこそ、国産小麦、道産小麦でパンを焼くことが当たり前のようになりましたが、その当時は違います。特に北海道の小麦の評価は低く、麺やその他の加工品の原材料として低価格で扱われる存在。取り引きの現場においても、悔しい思いをすることが多かったのです。しかしここで、一条の光が射します。美味しいパンが焼けるハルヒカリと、丈夫な農林10号のDNAを併せもった、ハルユタカが生まれたのです。でも、その秘められた可能性を、私たちですら知る余地もなく、手をこまねいておりました。
そんなある日のこと…。ふと新聞の新刊ページに目を落とすと、「国産小麦でパンを焼く」というタイトルが飛び込んできたのです。農文協(農山漁村文化協会)が発行するその本は、一般の主婦を対象にした書籍でした。興味がそそられた私は、同僚にも声をかけ、この本を購入してみることにしたのです。届いた本のなかには、国産の小麦を使ったさまざまなレシピが、美味しそうな写真とともに紹介されていました。そして最後に、小麦粉を取り扱っている製粉会社の情報まで載っているではありませんか! これは一大事。我が社も後れを取ってはいられません。
そこでポンと手を打ったのが、当時若手の佐久間良博でした。農文協にハルユタカを送ってみようと言うのです。私たちは編集部に電話をかけ、事のいきさつを説明し、ハルユタカ5キロを編集部宛に送る旨をお伝えしました。編集長の西森さんは、これを快諾。届いた小麦を自社で検証してみると、約束してくださったのです。さてさて、この先はどうなることかわかりません。果報は寝て待て。ただ、首を長くして朗報を待つだけの私たちでした。
ところで、ここで幾度か「私たち」と申し上げましたが、それにはワケがあるのです。当時、このハルユタカに関わった人間が主に四人いました。勝手に前へ進むハルユタカくんを追いかけるように、営業する者、流通の手配をする者、品質などの研究をする者、アイデアを出し社内の取りまとめをする者、それぞれに個性を発揮し動き出すことになるのです。今、振り返ってみると、それはまるで幼いハルユタカ王子をとりまく「おじさん四銃士」。従来の粉屋の性格とは異なる、新しい世界への挑戦でした。
次回は、ハルユタカがパンに生まれ変わった驚きのエピソードをお伝えします。
コメントをお書きください