第六話 食糧難と江別製粉

 安孫子安雄が故郷へ戻り、最初に手がけたのは義理の姉の精米工場を手伝うことでした。このときの日本は敗戦の痛みで、国中が貧困と食糧難に喘ぎ、都市部では人々によるデモや抗議が頻発。クーデターさえ起きかねない事態にまでなっていたのです。それは今も国際社会にあるような、紛争や戦争被害で国土が荒れ、世界の支援を必要とする難民を抱えた国々と同じような状況でした。この状況を考えた安雄は、生産量の少ない米を精米するかたわら、押し麦の加工も行うことにしたのです。

 

 昭和22年(1947年)。主食である米が収穫できないなかで、アメリカ合衆国が占領地である日本に対し、飢餓などによる社会不安を防止するため食糧支援を行いました。これはガリオア資金と呼ばれるアメリカによる占領地域救済政府資金です。「田畑の回復を待ってはいられない」。日本国政府はこの措置を受け入れ大量の小麦を輸入しました。小麦は製粉さえすれば、麺にもパンにもできるのです。米に代わる主食となります。

 

 ついで政府が行ったのは、小麦の製粉加工を受け入れる工場の募集でした。国が小麦を提供し、製粉の加工賃を払ってくれる。こんな仕事は滅多にありません。大小さまざまな工場が名乗りをあげ、その数は全国で3000を超えたといいます。これが国の政策としておこなった、食糧確保臨時措置法です。昭和237月(1948年)のことでした。

 まさにこの年の5月、江別製粉は誕生します。そもそも精米と押し麦加工をしてきた安雄も、迷うことなくこの事業に乗り出したのです。会社は戦時中からの心の友、岩田政勝氏と相談し五分五分の持ち株で始めました。工場も岩田醸造の敷地内に設け、小さいながらも稼働し始めます。小樽の港で陸揚げされた小麦は、国が決めた割り当てによって各地へ運ばれて行きます。安雄は来る日も来る日も製粉機を回し、与えられたノルマを精一杯こなしました。

 

 順調に思えた仕事でしたが、昭和26年、国による食糧確保臨時措置が解かれたのと当時に、江別製粉に試練が訪れます。祖父である助右ヱ門が何度も泣かされたことのある火災でした。大切な工場が焼け落ちてしまったのです。途方に暮れる安雄でしたが、逆境に負けないのも安孫子の血です。すでに、その胸には一筋の光が射していました。

 

※写真は精米を行っていた当時の従業員