明治も終わりを告げるころ、滋賀から渡ってきた安孫子助右ヱ門は、この江別の地で生涯を終えました。ところがその翌月の明治42年3月23日、まるで生まれ変わりのように、安孫子一族の未来を大きく変える存在が誕生します。安孫子安雄です。
助右ヱ門亡き後、息子の吉蔵は残された土地を糧に、土にまみれて生きました。畑作とわずかな家畜で営む農業。真面目で穏やかで几帳面。助右ヱ門の波乱の人生を思えば、対照的かもしれません。苦労が絶えなかった両親を思えばこその忍耐だったのでしょう。その甲斐あってか、父の代からの長きに亘る開拓功労者として、昭和3年、江別市より表彰されるに至ります。
次男として誕生した安雄は、そんな父・吉蔵の背中を、ずっと見て育ちました。当時の畑作は麦などの穀類と、大豆・小豆などの菽穀(しゅくこく)類が主で、除草に最大の労力を費やしていました。特に安雄の育った対雁は毎年のように水害に遭い、そのため悪質な宿根の雑草が密生し、農作業の手間を更に過酷にしていたのです。「ただ黙々と土と向き合うだけでは、ダメだ」。若き安雄青年の胸には、かすかに農業の新しい未来が見えていたのかもしれません。家業を手伝う安雄は、機械を用いた除草を熱心に研究することになります。「なぜ、こうなるのか。そして、どうすればよいのか」。原因を追及し、何らかの手を講じては結果を導き出す。この持ち前の粘り強さが、後の安雄の将来に発揮されることとなるのでした。
しかし、時代は再び、人々の生活を大きく揺るがす大変な局面を迎えます。戦争です。次男だった安雄は軍隊に借り出され、日本が敗戦するまで故郷に戻ることができませんでした。戦争が終わっても、たくさんの命を失い大切な働き手をなくした日本の国土は荒れ放題。作物がとれず、国民はお腹を空かした飢餓状態に陥ったのです。この危機的状況が、復員した安雄の未来、そして江別製粉の誕生するきっかけへと続くのでした。
※写真は昭和初期:安孫子本家の農作業のようす
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