第四話 定住への決意

 明治初頭の対雁(ついしかり)は、江戸時代から石狩十三場所の一つとして商場が開かれ、河川を使った内陸部への水路交通の要衝として番屋も置かれていました。この番屋のあった場所こそ、江別発祥の地と言われているところです。江別には明治11年に屯田兵が入植。現在の王子地区である江別太に兵村が置かれていました。その2年後の明治13年。新緑が芽吹く季節を迎えた5月のこと。人々が暮らし、集落が形づくられ始めた対雁へ助右ヱ門は移り住みます。けれど商売中心だった函館での生活とは正反対。対雁村での日々は、まさに大地との格闘でした。鬱蒼と生い茂る大木を切り倒し、深く根を張った切り株も掘り起こし、少しずつ土地を広げていくのです。畑を作り実るまでは、気の遠くなるほど先のことでした。

この頃、道内各地で行われた土地の開墾ですが、どこまでも果てしなく密林が続き、その先に高い山がそびえていても気がつかないほどの深い深い森でした。なかには労働の過酷さに心臓肥大になるものや、諦めて故郷へ帰る者もあったと、屯田兵の開墾記録には残されています。しかし、土地さえ切り拓けば国の優遇を受けながら、そこで暮らすことができる大きな魅力もありました。故郷に帰れば、猫の額のような狭い土地を親族で分け、わずかな米と野菜を育てるだけの生活が待っています。「大根飯ばかりのひもじい暮らしはしたくない」。その一心で北海道へ渡ってきた助右ヱ門ですから、鍬を下ろす手にも力が入ったことでしょう。

 

対雁に腰を据えると決めた、その年の秋。息子の定住を待っていたかのように、父、村西善右ヱ門は他界します。もうこれで本当に、滋賀の故郷には戻ることはできません。新しい土地が、新しい故郷。助右ヱ門一家は、北海道の安孫子家として、この江別に根を張ることになります。畑作と酪農。最後には大地と共に生きる道を選んだ安孫子助右ヱ門は、明治42年2月15日、69歳でその生涯を閉じました。

 

 それから20年ほど経た、昭和3年。江別市開基50周年記念の際、息子の吉蔵が開拓功労者として表彰されることになります。遠い滋賀から渡り、人生の荒波を越えてきた助右ヱ門の労苦が報われた出来事でした。

 

※ 写真:対雁 古地図  江別市対雁自治会発行/対雁百年史より