製粉会社の林立と衰退と…

皆さん、こんにちは。

粉屋の安孫子です。

 

前回はハルユタカの誕生についてのエピソードをお伝えしましたが、4回目となる今回は、戦後まもなくスタートした江別製粉と製粉業界の移り変わりに触れてみたいと思います。

 

私たちの江別製粉株式会社は、昭和23年(1948年)5月に誕生しました。当時は敗戦直後の物不足のなかで、復興の兆しは見えたものの、みんながお腹を空かせている状態でした。そこで米の代用食として、アメリカから小麦が送られてきたのです。お米と違って小麦はそのままでは食べられません。そこで、国から小麦の製粉加工を受託し、支給された小麦を粉にしたら、そのまま国に買い取ってもらうという、実に元手のかからない商売が全国各地で始まりました。おかげで3000社を超える製粉会社が、国内で一気に増えたのです。我が社もこの仕事に参加し、製粉事業を開始しました。

しかし、国の統制下にあったときは順調でしたが、自由販売になってからは勝手が違いました。小麦を買い取り、売り先に営業し販売する。本来ならば当たり前のことですが、元手もかかる上に、販売に力を入れないと利益も出ません。今までのように、国に委託された分を単純に引き取ってもらうというわけにはいかなくなったのです。当然、競争が生まれることで、数多くあった会社も自然淘汰され、十数年の間に500社を切るほどに激減してしまいます。

 

問屋を含めた熾烈な販売競争とコスト競争が起きるなか、製粉という仕事をどう伸ばしていくのか。当社においても、問題は一緒です。そこで意を決し取り組んだのが設備の充実でした。5階建てほどもある立体的高層の大きな構内。パイプのなかを勢いよく走る小麦。製粉会社として活路を見いだすために、画期的な設備化を図ることは社としても大きな賭けです。それからというもの、ハルユタカとの出会いを迎えるまで、ただひたすら業務に明け暮れ、流通・問屋・商社が一体となった業界の輪のなかで製粉に徹する15年を送るのでした。

 

次回は、運命の分岐点、ハルユタカと歩み始めた時代をご紹介します。