ハルユタカ誕生秘話

皆さん、こんにちは。

粉屋の安孫子です。

 

今年も暑い夏ですね。今ごろ北海道の各地では、春まき小麦の刈り取りが行われていることでしょう。さて連載3回目となる今回は、いよいよハルユタカについてのエピソードをスタートしようと思います。

 

 まずハルユタカを語るにあたり、欠かせない人物がいらっしゃいます。北海道において小麦育種研究の第一人者とも言える、尾関幸男(おぜき・さちお)先生です。私はかつて尾関先生を訪ね当時の苦労を取材し、お話を伺ったことがあります。一つの質問に、ポツリポツリと答える先生は、まさに忍耐のひと。つねに現場主義で仕事熱心。盆も正月もなく育種に明け暮れた、研究者の姿そのものでした。

 

東川町出身で後の帯広畜産大学を出た先生は、昭和26年から平成3年に至るまで、その人生のほとんどを小麦の育種につぎ込みました。特に昭和43年から赴任した北見の農業試験場では、春だけで100、秋には200といったケタ違いの数の育種を、日本最大規模で手がけていたそうです。今ではDNAや科学分析が当たり前になりましたが、当時はすべてアナログ研究。一つの種にどのような可能性と結果が宿っているのか、未知なる世界に期待と失望をくり返していたことでしょう。

 

ハルユタカが生まれたのは、そんな北見時代。水田からの転換で麦に注目が集まっていましたが、春まきに適した品種もなく、国内で唯一、強力小麦に登録されていたハルヒカリは、倒伏性に難があったのです。脚が短く倒れにくい、そして高収量の小麦が欲しい。その性質をもった品種の育成が急務でした。

 米の減反で小麦を作る。その転作田の急増に対応するため、せかされて始めた育種。研究方法は、あの緑の革命をもたらし世界で取り入れられていたCIMMYT方式を用いたそうです。春まき品種で30〜50、秋まき品種で100種以上。とにかく材料をかき集めた中から育種に育種を重ね、10数年もの歳月を費やしました。

 

北見春47号、和名ハルユタカ。昭和60年(1985年)、ついにハルユタカは誕生します。そしてその2年後の昭和62年(1987年)の8月7日、晴れて農林水産省の食用作物に正式登録されたのです。アメリカやカナダ産だけが優秀な小麦と思われていた時代です。そのとき、まさかこのハルユタカが持つ力強い未来を、誰が想像したことでしょう。

 

先生はおっしゃいました。人間がどんなに必要に迫られても、決して自然を壊してはならないと。いったん壊してしまうと、なかなか元には戻らない。もっともっと大事にしてもらいたい。長く小麦の成長を見守ってきた尾関先生だからわかる、自然界の営みとルール。きっと、犯してはならない貴重な聖域と向き合いながら、その研究人生を歩まれたはずです。

 

私たちには責任があると思うのです。生産者だけではなく農と食にかかわる全ての人が、自然を愛し、自然にも愛される存在であること。それが先生にお会いして感じた一筋の願いでした。

 

 

次回は麦と粉がもたらす、製粉業界の大きな転換期についてお話します。