江別製粉の祖となる、初代安孫子助右ヱ門。ふるさと安孫子村の名を自らの姓に改めてまで、北海道へ渡ったのは何故でしょう。第二話となる今回は、新天地での一歩を踏み出す前の、当時の時代背景を少し振り返ってみましょう。
助右ヱ門が生まれたのは天保11年、江戸幕府末期のこと。農業を営む、父 村西善右ヱ門の長男として誕生しました。この頃、長州では初代の内閣総理大臣となる伊藤博文が、薩摩では北海道開拓使長官の任を託される黒田清隆が産声を上げています。また世界においては欧米によるアジア進出が著しく、特に産業革命を起こしたイギリスが、原材料の確保と輸出拡大のため、アジア圏での植民地化を強く推し進めていました。そして助右ヱ門が生まれた1840年、とうとう隣国の清(中国)とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発。欧米による火の粉が、日本へと飛来するのも時間の問題となったのです。
助右ヱ門 13歳の夏。ついにその時がやって来ました。アメリカ合衆国海軍 東インド艦隊最高司令官、ペリー率いる黒船の来航です。260年以上に亘る鎖国を解き、開国へと方向転換をせざるを得なかった徳川幕府。次第に将軍家の権威も失墜し、幕藩体制も崩れていきました。脱藩する者、投獄される者、命を奪われ粛正される者や暗殺される者…。これらの不穏な空気は、江戸と京都を結ぶ中山道を生業の道としてきた、近江商人たちの耳にも入ります。なかには密書を託され、重要な情報の伝達を頼まれる者さえいたかもしれません。誰もが、じっとはしていられない思いのなか、風向きを伺いながら、日本の行く末を案じていたことでしょう。
武士の子も、商人の子も、農家や漁師や大工の子も、みな明日はわからない。「天下泰平の世は終わった」。人々は自分の意志で物を言い、道を選ぶようになっていきました。そんなとき若き助右ヱ門に聞こえてきたのは、近江商人たちが加賀の船頭衆を使って廻船で商売をする、北前船の噂です。「蝦夷は豊かで、広い土地と資源にあふれている。古いしがらみもなく、誰もが自由に商売できるらしい」。内地での未来に希望を見いだせず不安を覚えていた助右ヱ門は、農家の長男でありながら故郷を離れ、叔父の甚六に同伴し函館へと赴く決心を固めます。慶応元年、助右ヱ門25歳。それはまさに、幕府から朝廷へと大政奉還が成される二年前の旅立ちでした。
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ハルユタカを食した者 (水曜日, 15 7月 2015 06:41)
とても歴史を感じます。慣れ親しんだ故郷を離れるという決心、それはとても大変な決断だったことでしょう。次号も楽しみにしております。
ハルユタカ物語 編集部 (日曜日, 19 7月 2015 01:10)
ハルユタカを食した者 さま
今昔物語へコメントをいただき、ありがとうございます。
当時の日本の状況、遠い北海道へ渡ることの重大さや深刻さを思うと、飛行機数時間で行き来する現代の私たちには、想像もつかないほどの一大決心であったろうと思うばかりです。
この連載では、一人の人物、一つの会社だけにスポットを当てるのではなく、その時代背景となる社会のようすなども交えてご紹介したいと考えております。
どうか、ご期待ください。